余計な苦労をかってでる

好きなことやそうでないことを無茶苦茶書いてます。

求人広告のコピーライターとして9ヶ月働いて、出来るようになった4つこと。

めんどくさいので箇条書きにする。

 

①タイピングが早くなった。

※求人広告は文量が多い。

1つの原稿で2000文字以上書くのは当たり前。

1日2~3本の原稿を書くのだから、自然とタイピングは早くなった。

 

②読みやすい文章を書けるようになった。

※読んでもらえなければ意味が無い。

そう意識するうちに、文章が多少読みやすくなってきた。

入社したころの自分の文章を見比べると、でこぼこしていて違和感がある。

文章の流れ、リズム。接続詞の使い方。です・ます。

1パラグラフにつき一意を述べる。

それが出来るようになったからだと思う。

 

③コピーとは何か、が多少つかめるようになった。

※まだまだ、ではあるが。

価値を上げるのが真のコピーだと、今の僕は思っている。

次点で興味を抱かせるコピーだろう。

 

機能しているのであれば、コピーはコピー。

だからシチュエーションコピーも、間違ってはいない。

「なんだこの仕事」と思ってもらえれば、求人コピーとしては及第点。

「この仕事って、実はこんな魅力があったのか」それなら合格点か。

もちろんシチュエーションでも、合格点コピーはあるけれど。

安易に頼らないようにはしたい。

 

④取材がこなせるようになった。

※週に1回近く取材に出かけるため、

自然と慣れた。

もともと人前で話すのは得意なこともあるけど、

場数を踏んで多少度胸がついたと思う。

でも、やっぱりいかつい人には無難な質問しかできない(チキン)

最近褒められるのが話し方についてが多い。

それはそれで嬉しいのだけれど、

コピーでも褒められたいなぁ。

 

以上。

岩崎俊一さんのコピーを写経して感じたこと。

 

 

 

僕は4月からコピーライターとして働きます。

今はその練習として、写経をおこなっています。

 

本当はたくさんの人のコピーを写経するべきだと思いますが、

僕は岩崎俊一さんのコピーが好きなので、そればっかりやっています。

 

ここ数日で6つの作品を写経しました。

 

「ロケットも、文房具から生まれた。(トンボ)」

「幸福は、ごはんが炊かれる場所にある。(ほっともっと)」

「がんばる人の、がんばらない時間。(ドトール)」

「人は、書くことと、消すことで、書いている。(トンボ)」

「人生は、冬ではなく、春で終わりたい。(ヒルデモア)」

「年賀状は、贈り物だと思う。(郵便事業)」

 

これらはどれも、何度も読みたい広告コピーという本に紹介されていたものです。

一言一句まねて書き、デザインも作品の通りになるよう工夫しました。

 

 

f:id:ogawawan:20140303000710j:plain

書いた後、読み返してみる。声に出しても読んでみる。1つずつそんなことをしていくうちに、岩崎さんのコピーの性格のようなものが見えてきました。

 

 

①ですます、である口調が混ざっている。

 

「ロケットも、文房具から生まれた。(トンボ)」のボディコピー(本文)からの引用ですが

 

幸福な仕事。自分たちの仕事を思う時、私たちトンボは決まってこの言葉に行きあたります。なぜなら、私たちのそばには、いつも頭と心をいっしょうけんめいに使う人がいて、その人の手から、必ずひとつ、この世になかった新しい何かが生み出されている。そう思うたび、誇らしさに胸がいっぱいになります。

 

見事だなぁ。そう思います。だって僕が書いたら

幸福な仕事。トンボは、自分たちの仕事を考えると、いつも頭にそんな言葉が浮かびます。誰かが鉛筆を使って、何かを考え、そして生み出しています。トンボはそのことを、本当に誇らしく思うのです。

こんな感じになりますね。そもそもこの「幸福な仕事」というキーワードが出てこないでしょう。

ですますと、である口調。これを混ぜて使うのは難しいです。どうしても違和感が出てしまう。文章のリズムにあった使い方をしないといけません。

このリズムという言葉をキーワードに、②に続きます。

 

②文章に岩崎さんの性格がにじみ出ている。

文章家が備えるべき美徳は数えあげていけばきりもないが、そのすべてに君臨するものがあるとすれば、それは晴朗で快いという徳であろう。向井敏文章読本

 

これは編集手帳を10年以上書いていらっしゃる竹内政明さんの著、「編集手帳」の文章術から二重引用したものです。

このあとに竹内さんは、「私が自分の文章を好きになれないのは、そこです。(…)何をどう書いてもジメっとしてしまうのですね。」

と続けています。

僕は、コピーライターのもつべき美徳は「読みやすい文章がかけるか」だと思います。

 

コピーライターと他の文章家で一番違うのは、読んでいただく人の気持ちです。

小説も雑誌も。新聞だってそんなに変わらないでしょう。みんな読みたくてよんでいます。お金を出して、「さぁ、読むぞ。」ちゃんと、すでに「読者」になっています。

でも、広告は違います。広告を好んで読みたいという方は、なかなかいません。広告は、弾丸です。受け取る方は読者になっておりません。目に飛び込んでくるから、仕方なく読むのです。読みたいから読むのではありません。

 

書籍も新聞紙も、読むのにお金がかかります。

広告は読むのはただです。その代わり、すすんで読まれません。こちらから働きかけないと誰の目にもとまらないのです。そして、読んでもらえない広告に意味はありません。企業のためにも、読んでいただけるものを書かねばなりません。

 

そのために、どうするか。

まずは、文章のアクをぬきます。

気取っていたり、飾っていたり、虚勢をはっているような文章は、読む人の立場にたっていません。誰もそんな「作品」を求めていません。

出来るだけやさしく書くことが求められます。

 

そしてそのうえで、企業の想いや消費者の気持ちにたったメッセージを書きます。

もちろん、コピーライター自身の想いをのせることもあります。「これは体験談なのかな」というものも中にはあります。でも、やっぱりコピーライターは裏方です。企業の代弁者でないといけません。

それになにより、私たちは個人の想いがたっぷりつまった文章を、あまり好みません。あつくるしく思うからです。

 

個性は匂わす程度に。それはでも、とっても難しいんです。

 

けれど、岩崎さんのコピーは違います。

実際に写経をしていると、なんだか、人柄が浮かび上がってくるのです。

あったかいような、優しい印象です。それでいて、どこか力強さがあります。

ほっとするような文章、ではないでしょうか。

 

文章には人柄が出ます。

たいていのコピーライターはそれを無理やり消して、付け焼刃のような文章を書いています。でもそれは仕方ないのです。コピーライターは、好きなことを書いていい訳じゃない。あくまで黒子です。クライアントに駄目と言われれば、どんなにすぐれた表現も却下されてしまいます。それは仕方ないことです。

 

岩崎さんも同じです。どれだけ優秀なコピーライターであっても、その枠組みから外れることはできません。決められた条件の中で書いている。自由に書いているわけじゃないのです。

 

それなのに、こんなにも個性が出てる。それも、全然うっとおしくないのです。おそらく意識されているものではないでしょう。でも、文章から匂いたつものが、岩崎さんにはあるのです。

本物の個性は飾らずとも出てくるものだといいますが、まさにそれですね。

 

 

企業の代弁者として、コピーライターをしつつ、しっかり自分の色がでている。

岩崎さんのようなコピーライターを目指して、僕もがんばります。

 

 

孤舟のレビュー

渡辺淳一の孤舟をよんだ

孤舟




これから新卒で働こうかという人間が読むものではないかもしれないが
念には念をだ

内容は
仕事に没頭してきた男が定年を迎え、思わず出来た暇な時間をもてあまし自分を見失い、
あげく妻や娘に煙たがられるも、何とか自分を取り戻していくというもの。

大手広告代理店の役員を務めた主人公は、団塊の世代ということもあってかプライドが高く気難しい。
60歳を迎える前に社長待遇での子会社への出向を命じられるが、気に入らず拒否し、会社をあっさりと辞める。

退職後は稼ぎがなくなるので、それまでのような贅沢な暮しも出来なくなる。
それまで赤坂や六本木で飲んでいたにもかかわらず、急にガードレール下の安居酒屋で飲むよう、財布を握っている妻に言い渡されてしまう。

会社を辞めたことで、自分に何の価値もないように思えてしまう男のお話だ。

この主人公の価値観は基本的に、それが自分にとって有意義か、つまり出世や仕事に役に立つか、というものだ。
だから、妻が近所のスクールにヨガを習いにいったり、自分にも何かやるように勧めても、気が乗らない。なぜなら、もはやそれをやっても何の意義も見出せないからである。
例えば囲碁と俳句が彼の趣味であり、定年後はそれに没頭しようと思っていた。

しかし、よくよく考えればそれらは上司や取引先との話のネタに使うものであり
そのものを楽しめと言われても彼には無理なのだ

結局妻と別居状態になりなんにも楽しめなくなったため、デートクラブに金をつぎ込む主人公
あんまりな展開だと思ったが最後には一応救いがある。よかったな、威一郎。


まとめ
①意義とか関係ない、趣味をもとう。
②長く付き合える友人は大事
③家事をすこしはやりましょう。
④ペットは最後で最高の癒し。

マナー以前の「汚食」事件

夫婦げんかは犬も食わないという
なんだか犬に失礼な気もする。まぁ僕は飼ったことがないからわからないけれど。
自分の両親が言い争いをしてるのを良く見てきた。
物心ついた時からそうだ。
10代のころは口をはさむことも多かったが、今はもう、諦観している・
それも気持ちのいい意味ではなく、まさしく、あきらめといった心境に近い。
どうしようもないものに対するやるせなさとか、ばかばかしさ、むなしさを感じる。
どちらかがおれれば済む話なのに、どちらも譲らない。どんどん喧しくなっていく。
怒りが、根本的な原因が分からないがお互いへの怒りが、あふれかえっていく。
ちなみに今日怒っていたのは、僕の分のおかず、あぶらあげだ、を親父が、しらないまま食べてしまい、母親が怒るというものだ。親父は先に言えと怒るし母親はそもそも親父が魚も焼くと言ったのに焼きものばかり食べたくないとごねるのが悪いとガミガミさけぶ。僕はなすの味噌汁をすすりながら、また、かぶの漬物とごはん、さばの塩焼き、(ほんとはここにあぶらあげが入る予定であったそうだ)をもぐもぐしながら、僕はあぶらあげがあってもなくてもいいし、そんなのいつでも食べれるやんと小さくぼやく。しかし言い合いは止まらず、結局20分程の食事のあいだ僕はすごく参りながら食事をするはめになった。
孤独のグルメにあるように、食事は誰にも邪魔されず静かで、かつ豊かであるのが望ましい。さびしさもあるが、ご飯とともにそれをかみしめながら食べるのはいいものだ。
誰かと食べるのももちろん、悪いことではない。というより、望ましい。
誰かと食べつつも、邪魔をされずに静かに食べることができれば、これにこしたことはないだろう。たあいもない話をしながらも、どこか沈黙のある食卓。その沈黙が緊張感を生む。いい意味での緊張感があるほうが、食事はおいしい。大人数で騒ぎながら食べたり、浴びるほど酒を飲みつつする食事は緊張感がなさすぎる。かといって毎晩高級レストランにいくのも、味うんぬん以前に肩がこる。ちょうどいい雰囲気で、ちょうどいい食事をとることがもっとも望ましい。
そういった面から見ると、今日のご飯は最低だった。
まず両親がとなりで喧嘩している。これはどんな高級レストランで食事をするよりも肩がこるだろう。しかも内容がくだらなく、むなしくなる。つまり緊張もなにもなくなり、どうでもよくなってしまう。悪いとこしかないのだ。
せっかく味付けが良くても、雰囲気がわるいと大なしである。
夫婦喧嘩は犬も食わない。当然だろう。たとえ犬だって、食事をする時くらい落ち着いて豊かに過ごしたいはずだ。味をとやかく言う前に、もっと見直すべきところがあるとおもうよ。ほんと。

変わりたいと思う気持ちは、自殺だよね。


ネットは本当に、いろんなことが書いてある。

グーグルで検索すれば何か解答を見つけられる。

仕事、人間関係、恋愛、お金のこと。

賢くて、物をまとめることがうまい人たちが、こうしたことについて沢山の興味深い記事を書いている。

書いてあることは、ほとんどがありきたりなものだ。

仕事術、人間関係、恋愛etc

それでも僕はずっとそういう記事が好きだった。

記事を読むたびに、今の自分とかけ離れた存在に少しでも近づけるような気がした。

読んで、うんうんいって納得して。

これを実行すれば俺も認められるんじゃないか、あぁ、きっとそうだ頑張ろうって。

ずっと心を奮い立たせてきた。

ただ、今日なぜか突然、むなしくなった。

そうしたものを読んで、自分は何がしたいんだろうか。

ふとそう思った。

最近はそうした記事を読むたびに、何かの答え合わせをしているような気分になる。

なんでなんだろうね。

ライフハックという、機械じみた行為につかれたのかもしれない。

自分は自分が思っている以上に感情的で、ずっと弱くてみじめだと気付いたからかな。

人間は機械ではない。機械にはなれない。

でも、朝5時起きがどうとか、成功者の習慣だとか、時間管理術だとかなんとか

ようはそういったプログラムを人間に実行させようとしているだけじゃないのかと

心と体の両方が反発するようになってしまった。

習慣は、習性なんだと思う。

習性はその人の、本能のようなものだ。

そしてそれを矯正することは、おそらく無理なのだ。

怠け者は、怠け者。

それでいいじゃないかと思う。

何かを成すことが出来てれば、自分で納得いっていれば。

自分を肯定できる一つがあれば、人はライフハックなんてする必要なくなる。

欠点を抱え込むことは、怖い。

自分が一生このままなのかと、ずっとそうなのかと考えると、不安にも思う。

でも、やれないものはやれないし、向いていないことはどうあっても続けられない。

それよりも、自分が好きなことを認めて育てていく時間を作ろうと思う。

何が好きなのか、とかは、良く分からないけれど。


間違いなく無能な人の11の特徴

間違いなく無能な人の11の特徴

 

 

 

 

f:id:ogawawan:20130315002615j:plain

 

 

 

そもそも無能とは何か。

それは、「自己管理の出来ない人間」のことだと僕は思う。

 

本当に頭のいい人にしかできないことが上手くこなせなくても、それは仕方のないことだ。

しかし、なんら難しくもなく、ただ面倒だと言うだけで「やろうと思えばいつでも出来る」と誰もが思っていることをやらずに後悔している人は、ほぼ無能と呼んでいいだろう。

 

以下11の項目をすべて満たすことは、まったく難しいことではない。だが、世の中の半数以上はどれかに当てはまるのではないだろうか?

つまり、あなたは最低限のことを守るだけで、世の中の大多数を占める無能とは違った存在になれるのだ。

 

 

 

 

①すべてにおいて継続出来ない

 

一にして全ての元凶。無能の何が無能って、この点に尽きる。人に教えてもらってもその場では「なるほど!」と感心しながら、実行しない。もしくは三日坊主。自分でやってみて、確固たる理由があってやめるのであれば問題はない。この点であなたが無能か確かめるのは簡単だ。あなたが途中で投げ出してしまったこと(主に習慣だが)を一年以上続けている人を見た時、まったく羨ましく思わなければ、あなたは無能ではない。しかし、やっぱり続けておけばよかった。。。と後悔する人は、無能と呼ばれても仕方ないだろう。

 

 

 

②記憶力がないくせにメモをとらない

 

恐ろしいことに無能な人ほど驚くほどメモをとらない。もしくはとるのが下手。要点

掴むメモの取り方ができない。そのせいなのか、メモをとらない。あげく人に質問しまくり、迷惑をかける。有能とは言わなくても、まともな人間ならもしそんな経験をすれば、メモを持ち歩くだろう。それが出来ないのが無能なのだ。

 

③ノートを最後まで使い切れない(最初の数ページだけ使って放置、のノートが沢山)

 

学生時代を振り返って欲しい。

出来る人のノートというのは、ナンバーや使用した期間が書いてあったりするものだ。(ここではノートをほとんど作らずに勉強のできる頭のいい人の話はおいておく。)きちんと作ったノートは資産であり、見直すに当然値するものであるので、見出しをつけているのである。

そんな基本的なことも出来ないのは、非常にまずい。

 

④ちょっとペン貸して、が口癖

 

メモの話とほぼ同じ。

ペンがないと困るなら、きちんと携帯しておかないといけないのに、それすら出来ない。小さなことだが、こういう細かいところが積み重なって人は無能と見られてしまう。

一方、よくペンを借りられる人は、頼りがいのある人かもしれない。あの人なら持ってる、あの人はしっかりしてる、あの人はすごい、みたいな評価に繋がってくからである。

 

 

⑤物事を大雑把に捉えてしまう

 

これは裏返すと、細かい点まで意識がいっていないということである。物事を大雑把に理解するだけでよい時ならそれでもいいが、細かい点まで留意しなければならない時にもこういった理解で満足していては、緻密な作業の出来ない人、理解力のない人、細かい点に気を配れない人、と見られてしまう恐れがある。

 

 

⑥同じ自己啓発本ライフハック記事を何年も読んでいる。

 

継続出来ないからである。

愚の骨頂であり、どうしようもない。

いつまでたっても次のステージに進めない。

 

⑦忙しいが口癖

 

忙しいが口癖の人に、仕事が出来る人はいない。

私は自己管理能力がないです、と言っているのと同じだからだ。

自分がやるべき仕事を見極められず、頼まれたら何でも引き受けてしまい自爆してしまうのも、無能の特徴である。

 

⑧定期的にまとまった片付けをするが、維持できない 

 

典型的なやつ。解説の必要なし。

 

⑨変に完璧主義なため、かえって途中で投げ出す

 

何か少しでも上手くいかないところがあると、すぐに嫌になってしまう。

改善しようという努力もしない。正確には、場当たりな行動を繰り返すばかりで途中で飽きてやめてしまう。

 

 

⑩五分遅刻がいつまでたっても治らない

 

時間を大事に出来ない=お金を大事に出来ない=友人・彼女・両親を大事に出来ない=人生を大事に出来ない=自分を大事に出来ない

 

⑪いつまでも夜型人間の悪循環ループが治らない

 

上記すべてを加速させる行為。

 

 

 

最後に

この記事は自戒と自己愛をたっぷりと込めています。

 

 

アホ「これが天職や!プロフェッショナルになるんや!」→3か月後 アホ「俺には無理やわ。途中まで頑張ったけど、結局中途半端で諦めた。」 何故なのか。 

一方の普通の人

「楽しくやろっと」→3か月後 「なんか趣味仲間も増えて充実してきた!いい感じ」

何で何でしょうね。

 

 

 

 

人が持つ、「プロでなきゃ!」症候群についてと、その対策

そもそも、プロフェッショナルである必要なんて、あまりない。

 

物事を始めるとき、僕はまず完璧を目指す。

プロフェッショナルになろうと考える。生半可にやるのではなく、極めようと考える。

そう考えること自体は、決して悪いことではない。その姿勢は、誰もが評価するだろう。

しかしそれは、「続けば」の話である。

 

 

こんな話がある。

ある有名ボクシングジムのトレーナーに、記者がインタビューした時のことだ。

「きっとここに来る子のほとんどが、プロを目指してくるんでしょうね」と記者は聞いた。

「ああ。」トレーナーは答えた。「でも、絶対プロになります!って言う奴の、90%は3カ月でやめるんだけどね」

記者は意外に思い「ではどのような子が残るのですか?」と聞くと

「趣味だね。ボクシングのプロになりたいって理由でボクシングを始めるやつはだめだ。趣味で、好きでボクシングをやってるって言えるやつが、結果的にプロになるんだ」

と話したという。

 

 

ここに、僕がいいたいことの全てが詰まっている。

なぜ、人は極めようとするのか。そして、何故それゆえに失敗するのか。どうして趣味で、あまり志を高く持たない人のほうが、結果としてうまくいくのか。

このあたりについて考えていきたい。

 

①プロになろうとする人の思考

 

そもそもプロになることに、メリットはあるのだろうか。

考えても見てほしい。その道のプロと言われるまでには、およそ10000時間の修練をつまないといけないとされている。そのために、どれだけのものを犠牲にしなければならないのか、少し考えればわかる。

友人と遊びに行ったり、恋人とデートをしたり、などもあまり出来ない。他に趣味を作るなんてもってのほかだろう。そのようなことをしていては時間が足りない。なにせ、1日3時間そのことに没頭しても、10年はかかってしまうのだから。

それほどまでに他のことを犠牲にして得られるメリットなど、どこにあるのか。

 

僕には、名誉欲に似た物が欲しいからとしか思えない。

 

ここで誤解しないでほしいのは、あくまでも、いきなり「プロになろう!」と考えた人が、陥りがちな考えのことである。すでにプロの人が、名誉欲だけでやっているのではないと書いておく。

 

少し痛烈なことを書くと、突然、例えば20歳になるまで全くやったことがなかった分野でプロを目指そう!と考えてしまう人は、大抵そのほかの分野で、なんらかの形で挫折してしまった人である。勉強や仕事が上手くいかないからって、イラストレーターのプロを目指そうとか、声優を目指そうとか、プロカメラマンを目指そうとか、売れっ子ホストを目指そうとか、伝統派武術の跡取りを目指そうとか、神主をめざそうとか、そういう人達であり(僕のことです)

これらのこと、特にクリエイティブ関係のことにいきなり飛びこんでいく人というのは、往々にして人に認められたいという欲求が強い。普通の人よりも、である。愚かな人と言うのは、いつでも9回裏2アウト満塁ホームランにすがってしまうものなのだろう。

なにかで失敗してしまったから、別の分野で成功しよう!絶対トップを取ろう!自分なら出来る! 

このように考えてしまうと、以下のような悪いループにとらわれてしまう。

 

1 自分にはこれが向いている!これを極めようと思い立つ。
2 書籍やセミナーなどに通う。周囲に自分のやる気をアピールする。
3 壁にぶつかる。どれだけその世界のプロが本気でやっているかを知る。
4 自分と比較し、あんな風にはなれそうにもないと勝手に決め付ける。
5 別の分野に目をつける

 

「自分にはなにか才能が眠っていてそれを掘り起こせばなんらかの分野のトップを取ることが出来る。そうすれば名誉も得られるし、自分の名誉欲も満たされるぜ!」症候群、まあ通称中2病をひどくこじらせるとこのようになってしまう。

 

こういった人たちは、「若い時は何でもいろいろ挑戦しろ!」という言葉を、逃避に使っているのである。「俺は経験を積んでいる」というが、それは経験ではなくいろいろなところに顔を突っ込んでいるだけで、得られるものはあまりないのだということに気づいていないのだ。いや、気付いていてももう止められないのだ。

 

 

これは喜劇だと僕は思う。なぜか。一歩先に踏み込めばより充実した生活を送れるのに、その寸前で踏みとどまっているからである。笑えるではないか。

 

おそらく、すべての原因は「逃げ癖」である。

一度逃げ出したことのある人間が次に立ち向かうことは、以前の何倍も難しい。

 

 「今日逃げたら明日はもっと大きな勇気が必要になるぞ」

 

 

②プロになろうとする人と、プロになる人の違い

 

ではプロになる人はどのような人なのか。

巷ではよくプロには様々な条件があると言われる。

例えば、以下の5つだ。

 

①他に抜きん出て、「なるほど」と納得させるものがある。
②誰よりもその道を極めようと、厳しい努力、精進をする。(そしてそれを苦労と考えていない。)
③素人を感激、感動させることができる。
④自ら、「行き詰まり・スランプ」を自覚し、その克服に挑戦する。
⑤ファンがいる。

 

このようなことが常に出来ている人は、なるほど、確かにプロフェッショナルといえるだろう。まさに僕のようなアマチュアが考える理想のプロフェッショナル像だ。

けれど、それよりも大前提がある。絶対に外せない、前段階が存在する。

それが「それをやっていて、楽しいか?」である。時間を忘れて熱中できるか、それのために時間をかけても惜しくないか、どれだけ投資できるか、その点である。

 

 

「なんとなくプロになりたい!」という人は大抵、その物事がそれほど好きではない。多くの場合は、惰性でやっているにすぎない。

確かに始めたばかりは楽しい。恋愛と一緒だ。最初の3か月は楽しくて楽しくて仕方がないだろう。何でも知りたいし、それに関わることであればどんなことでもワクワクして出来る。毎日が楽しい。こんな感じになる。

けれど、ある日を境にふっと、前ほど情熱的にならなくなる。なにを自分はこんなに頑張っていたのだろうかと、冷静になる。そして、こんなの時間とお金の無駄だor自分にはもっと向いていることがあるといって、やめてしまう。結果、その業界に存在する本当に楽しい部分を知らないままに、終わってしまう。

 

対して「プロフェッショナルになる」人は、最初からそれほど情熱的に取り組むことはない。そもそも好きなのだから、やるのが当たり前である。周りからみればものすごく努力しているように見られたり、「プロなりたい!」と考えている人からはライバル視されたりもするが、本人は全く苦と考えていない人が多い。あくまで淡々と、でもしつこくやっている人は好きでやっているのである。

 

 

ゆえに、プロになる人は、一見ではそれほど目立たないことが多い。余り壮大なことは言わずに、ひたすらコツコツと積み上げる特徴がある。人の見ていないところでも手を抜かないのもその特徴の一つだろう。なにせ、好きでやっているのだから、手を抜く必要がないのだ。

 

逆に「プロになりたい!」人は目立ちたがり屋が多い。彼らは何かから逃亡した結果、何かのプロを目指していることが多いので、常に自分は本気なのだというアピールをしないと生きていけないのだ。しかし、人の目がないところではまるで努力をしないのが常である。それが5年、10年たったとき、大きな差として見えてくる。もっともプロになりたい人が、5年も続けている可能性はまれであるが。

 

 

③それでもプロになりたい「元逃亡者」たちへ

 

これまで、両者にどれだけ大きな差があるのか、いかにプロになりたいという口だけの人が滑稽であるかを述べてきた。

しかし、それでもプロになりたい。何かの道を極めたいと思う人はいる。そう僕である。

そのために、考えうる最善を書いてみよう。

 

A その物事を好きになる

先にも話したが、大前提である。ここを押さえない限り、プロになるのは難しい。好きでもないことを、好きで好きでたまらない人と同じモチベーションで行うのは、ほとんど不可能に近い。勿論、別に好きでなくても、食べていく程度には稼ぐことが出来るのかもしれない。よく、「それで飯を食っていけたらプロ」というからだ。でも僕は、嫌々やっている人をプロだとは呼びたくない。それに何よりも、疲れてしまうだろう。ロビン・シャーマが、著書でこう書いているのを引用すると

「好きでもないことで成功するのが、人生で一番不幸です」

 

B 真似をする

何故か判らないが、失敗する人に限って模倣を馬鹿にしがちである。例えあなたに無限のアイデアが備わっていても、それを生かす方法を知らなければまったくの無意味だ。まずは、すでにプロフェッショナルの人のまねをしよう。それから、創造をしていくのだ。

 

そもそも創造というものには種類が2つある。

①一次的創造

②二次的創造

である。簡単にいうと一次的創造は無から有を生み出す行為。そして二次的創造は有から有を生み出す行為である。

ちなみに現代において、①が生まれる可能性は極めて低いだろう。それこそタイムマシンやワープ技術なんでもない限り、認められないだろう。あの稀代のイノベーターであるジョブズさえ、過去のデータはもちろん、他人のアイデアまでパクリにパクッていたというのは有名な話である。

 偉人でさえそうなのである。さて、あなたは偉人だろうか。

残念ながらこの文章を読んでいる時点で違うだろう。なぜなら、彼らはこんなつまらない文章、最初の3行で読むのをやめて、自分のしたいこと、をするからだ。そして、それが故のプロなのである。

 

C 何かを捨てる

あなたの机の周りには何が置いてあるだろうか。

きっと無駄なものばかり置いてあるだろう。少なくとも、整然とした部屋ではないはずだ。

しかし、僕はあえて、部屋を綺麗にするよう強制はしない。仕事がはかどり、アイデアが浮かぶ場所というのは、人それぞれだからである。

 ただ、何かを捨ててほしいと思う。それは「物」か「行動」、もしくは両方である。

「物」はいうまでもない、あなたの部屋にある不必要なものである。全く使わないものが置いてあるのは、空間の無駄だし、思考の妨げにもなる。即刻捨てたほうがいい。逆に仕事に必要でなくても、これがあると落ち着く、はかどる、アイデアが湧くといったものは、ぜひ残しておくべきだ。

そして「行動」は、あなたの人生を形作っている最も大きなものだ。仮にもプロを目指すならば、それの妨げになるような行動は慎まなければならない。夜更かし、暴飲暴食、テレビをだらだら見る、ベッドでごろごろする、こういった行為は時間の無駄であり、プロを目指す人がしていいものではない。

 

ただ、一つだけ注意してほしいのは、この捨てるという行為は、自発的にやらねばならないということだ。つまり、まずはAの、「好きになる」という項目から始めてほしい。好きで好きで仕方がなくなれば、それ以外のことをしている時間がもったいなくなる。

そしてその結果、何かを捨てて無駄を減らそうという考えに落ち着く。こが一番理想的だと僕は思う。そうでなければ、あなたの心はひたすらストレスを抱えてしまうだろう。好きなこととは、何かを我慢して行うものではないのだから。

 

D やり通す 

もう、いうまでもないことだろう。というよりも、いかにしてやり通すかを書いてきたのだから。もし、目標の立て方が気になるのであれば本屋にいけばよい。それっぽい本がたくさん売っている.

 

 

 

④おわりに

 

ずいぶんと辛辣な意見を述べてきたが、これらがもう二度とブーメランとして帰ってこないようにしたい。とにかく、「好きこそものの上手なれ」「継続は力なり」なのだろう。